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2013年2月24日日曜日

永島孟斎って誰?


 「S030鹿児島戰記之内(静岡県立中央図書館のタイトルは鹿児島戰記之内都城籠城)」(画・楊洲周延)の記事を書いている永島乕重(ながしまとらしげ)について調べたところ、面白い事がわかってきたので書き留めておきたい。まず、同じ作品の異刷と見なして良いであろう国会図書館蔵「u020鹿児島戦記之内 〔賊軍都の城に篭りて評議の図〕」においては、この乕重の詳細が確認できていないため館内限定公開にとどめているらしい事がある(筆者の想像、国会図書館には未確認)。そして、同様に乕重が確認できず、館内限定公開にとどまっている作品が、他に「u016鹿児島暴徒激戦之図」(画・永嶋孟斎)、「u019〔賊軍より奪いし弾薬箱より賊兵出でる図〕」(画・楊洲周延)の二作品あり、乕重の事がはっきりすれば公開を呼びかける事ができそうな作品が、都合三作品あるという事だ。いずれも、文章家として名前が挙がっており、記事の作者のようである。公開されている作品としては西南戦争錦絵美術館の中に「D099鹿児島縣士族大山綱良護送之圖」があり、記事の末尾に「 小生 永島乕重(ながしまとらしげ) 記」というサインがある。画は永嶋孟斎である。
館内限定公開の画面
 浮世絵文献資料館で永島乕重を検索しその記事をまとめると「乕重(とらしげ)は慶応から明治20年代までの浮世絵師。永島福太郎、孟斎、竹林舎。神田紺屋町に住む。玩具絵、遊戯を得意とする。芳虎の門人か子弟。」という事である。ここででてきた、永島福太郎・孟斎という名前と号に注目していただきたい。これまで永島孟斎は歌川芳虎の事だと考えてきたからだ。歌川芳虎をウィキペディアの記事などからまとめると、「芳虎は一猛斎、孟斎、錦朝楼、永島辰五郎、辰之助、辰三郎。国芳の門人。作画期は天保(1830-1844)から。明治元年絵師番付2位。没年は不明であるが明治21年(1888年)頃、死去したと考えられる。国芳とは不仲になり破門されている。須田町四番地に住んでいた。」となる。どうも、永島孟斎を名乗る絵師が2人いるという事になりそうだ。つまり芳虎と乕重は別人であるが、ともに永島孟斎を名乗ったことがあるという風に考えられる。芳虎が師匠か父兄、乕重が弟子か子弟という関係になりそうだ。芳虎は絵師として活発に活動したが、乕重は玩具絵などにとどまり、むしろ、絵師というよりは企画者として記事を書いていたのではないだろうか。二人を呼び分けるには辰五郎孟斎と福太郎孟斎、孟斎芳虎と孟斎乕重。須田町の師匠と〇〇町の弟子、といった呼び方であろうか。

 西南戦争錦絵でこれまで紹介してきた作品の中に永島孟斎作品は12作品ある。西南戦争錦絵は御届印とともに、絵師又、出版人の住所が刷り込まれている。また他にも絵師のサインなど、情報は豊富にあるので、それを見てどちらの孟斎か判断してみよう。12作品中、須田町が8作品、松川町が2作品。絵師情報なしが2作品となっている。住所のある10作品はすべてが「ながしましんごろう」作品なのでこの10点は確実に師匠の作品であるといっていいだろう。残りの2点は「041田原坂の大戦争」「D100肥後熊本暴徒記」であるが、永嶌孟斎画とのサインがあるだけなので、サインを比較してみることが必要となる。下図を見ていただいたらお分かりのように同一の作者と判断して間違いなさそうだ。よって西南戦争錦絵の画像は、すべて、歌川芳虎つまり辰五郎孟斎芳虎(須田町の師匠)の作品であり、中に数点、弟子の福太郎孟斎乕重が文章を書いたものがある、という事になる。これまでのところ、福太郎孟斎乕重の画は未見である。

040西郷涅槃像はサインはなく、絵師 情報のみ。
041とD100の2作品と他のサインは非常に良く似ている。


 早稲田大学の古典籍データベースを見ると永島福太郎で文章を書いている例が5件(注釈1)ある。その中で、「鹿児島戦記.後編/永島福太郎 録;永島孟斎 画(歌川芳虎)」は全10集の絵入りの本であるが、シリーズタイトルは絵本 鹿児島戦記・東京書肆 青盛堂版 となっており、発行者の個人名はない。後編は各冊16頁に仕立てられ、すべてが絵入りの文章(墨刷り)に色刷りの表紙がついた体裁となっている。全部、永島福太郎録・加賀吉板・永島孟斎画となっており、弟子の文章に師匠が絵をつけたようだ。常識的に考えて、師匠の作画期は弟子は孟斎を名乗っておらず、福太郎という名前で活動していたのだろう。
 
注釈1

開化一口ばなし / 永島福太郎 編著
[開化一口ばなし]. 初号/ 永島福太郎 録 ; 竹林舎虎重 述
開化新作度々逸. 1,3-4 / 永島福太郎 著 ; 永島辰五郎 編輯・画
鹿兒島戦争日記. [前],後編 / 櫻齋 [編] (歌川房種、辻岡文助)
鹿児島戦記. 後編 / 永島福太郎 録 ; 永島孟齋 畫(歌川芳虎)

2013年2月16日土曜日

国会が駄目なら静岡があるさ!

S030鹿児島戰記之内

 
 静岡県立中央図書館より1月の作品として以下の三点を追加した。


S029鹿児島城戰争之圖
 S030鹿児島戰記之内は静岡県立中央図書館のタイトルでは「鹿児島戰記之内都城籠城」となっているが、画中タイトルは鹿児島戦記之内までなのでそれに従った。記事中に「都の城に篭りし処」という文言がある。この作品は国会図書館館内限定公開資料の「鹿児島戦記之内 〔賊軍都の城に篭りて評議の図〕」の異刷かもしれない。タイトル、絵師、文、出版者、名札は同一で、ほぼまちがいないと思われる。館内限定公開資料は著作権の継承・放棄が確認できていないためウェブ上には公開していない作品で、国会図書館内でのみ見ることができる作品である。西南戦争錦絵では21作品ある。(一覧リストはこちらをご覧下さい。)こういう形で、他の施設で見ることができるのも印刷物という形態で売られた、本物が複数存在するという錦絵の大きな特色である。

S030鹿児島戰記之内
S031日向霧嶋山激戰之図

2012年12月21日金曜日

異刷から考えること。

S028 鹿児嶋県暴徒熊本乱入圖


 今回静岡県立中央図書館から提供を受けた三作品は、すべて、国会図書館に異刷が存在している作品である。これまで、西南戦争に関連する錦絵をリストアップする目的からなるべく重複した絵は避けてきた訳だが、今回たまたま三作とも重複作品となった。重複していると、当然もう一枚の絵と比較していくことになるのだが、今回は、三種三様の展開があって、非常に刺激的だった。

 まず、「S026 征韓論之圖」では先日投稿したように、「名指ししない配慮のある」(Yajifun Sさんの表現、的確です。)明治天皇の肖像が隠されていた。

 次に、「S027鹿児島勇婦揃」の静岡県立中央図書館版では「背景の幕のぼかしを取りやめて、薩摩のマークが際立つようにした。旗も目立つようにした。そして、色のバランスを考えて馬の色を変えた。さらに、説明を補足して、乳飲み子の存在を強調し、名札の並びを整えた。」といった変更がなされている。

 さらに、「S028 鹿児嶋県暴徒熊本乱入圖」はなんと、タイトルが、「081鹿児島戦記 〔熊本城の戦〕 」から替わって刷られている。これは、気づくのに時間がかかった。絶対に見たことあるぞと思いつつ、タイトルで検索しても全然ヒットしないのでたどり着くまでにかなり時間を費やした。見つけた時は本当にびっくりした。この作品に関しては、どっちが先か、まだまだこれからの検証をまたねばならないが、今回のこの三作品は全く想像もしていなかった展開で、わくわくしながら作業を進めることができた。

 詳しくは、是非是非ホームページの方でご覧下さい。

2012年12月19日水曜日

描かれていた、明治天皇。

 静岡県立中央図書館から12月分のデータを受取った。最初の一枚は、楊洲周延の「征韓論之圖」でこれは同じものが国立国会図書館にも収蔵されている。作業をしながら関連の征韓論之圖を見ていたら面白いことに気づいたのでご報告したい。
以下は、西南戦争錦絵美術館からの引用。


S026 征韓論之圖 から
 この画題では周延は3種類の絵を描いている。
 095征韓論之圖では御簾は左図に描かれておりその前を固めるのが三条大政大臣・二品有栖川宮・岩倉右大臣であるが、13名の人物が描かれており、名札は12枚である。
 096征韓論之圖2では、このページでご覧の通り、御簾は中図にあり、前を固めるのは岩倉右大臣と二品有栖川宮である。また、人物は17名、名札は16枚である。
 097征韓論之圖3では左図に御簾が描かれ、前を固めるのは仁和寺宮・有栖川宮・岩倉具視公である。人物は16名、名札は16枚、一見合っているのだが、実は右図の後ろの方の人物の数と名札があっていない。実際のところ名札は15枚と見なしていい。

キヨッソーネ画
 さて、すべての絵で、人物の数が名札より一名多い。そして、その人物はいずれも御簾の真下に描かれている。もうお分かりだろう、明治天皇が、はっきりと絵の中に描かれていたのである。
明治神宮のホームページによると「明治天皇の御尊影といえば代表的なのが明治神宮宝物殿にある御肖像画です。(中略)明治21年、陛下37歳(数え年)のときの御尊影です。実は撮影されたのではなく、コンテ画で描かれたのでした。」
とある通りキヨッソーネが描いたものが、最も有名である。そして、写真嫌いの明治天皇は写真もそれほど残っていない。その意味で似顔絵ではないが、明治天皇の姿を描いた絵の存在は珍しいと言っていいだろう。

日清戦争錦絵美術館の方では「B006  朝鮮豊島海戦之圖」を追加した。これで大英博物館所蔵の作品は一段落したことになる。今後は国会図書館所蔵の作品を英語ページに追加していく作業を始めることになる。

2012年12月17日月曜日

1894 or 1904 ?  秋山好古かも。


B005 我騎兵隊ノ将校斥候定州南門附近二於テ頑強ナル敵之砲火二應ジ勇闘猛戰竟二之ヲ撃退定州ヲ占領ス
作者について、月三という名で調べていたら、尾形月三という名がでてきて、日清戦争錦絵でもおなじみの尾形月耕の子供であったので、飛びついて、その作に間違いないとした訳だが、誕生年を見てびっくり。明治20年の生れなので、制作時7歳となる。いくら早熟な天才肌の2代目であったとしても、また、集団制作の浮世絵であるからといっても、ありえないだろう。そこで、別人を捜さなくてはならないのだが、なかなか見当たらない。月耕自身が月三を名乗った時期があるのか、または、弟子でもあった妻の田井喜久が名乗っていたのか、あるいは、別の弟子か?

 早稲田大学文学学術院助教の向後恵里子は「日露戦争を描いた画家たち—非従軍画家による戦争イメージの形成」の中で「戦争錦絵・石版画は、錦絵自体の求心力が衰えたことで不振に終わったが、戦争初期には小林清親をはじめ楳堂小国政(柳蛙)、尾形月三(圓整)、右田年英(梧齋)などが活動した。」と月三(圓整)の名をあげているので、この錦絵は日清戦争時のものではなく、日露戦争時のものである可能性が大きい。
各作品のサインと印を比較してみる

 大英博物館はこの作品を1894年のものとしているが、大英博物館には他にも3作の月三の作品が収蔵されており、それはいずれも、1904年のものである。つまり、日露戦争の時の作品ということだ。サインや圓整の印は同じなので、この作品は日露戦争時のものと断定してまず間違いないだろう。

 画題には騎兵隊とあるので、騎兵第一旅団(旅団長 秋山好古)を描いたものかもしれない。