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2012年10月5日金曜日

日の丸横一の標章 想像図の訂正

 前々回、日の丸横一の博愛社の標章を想像図として、示したが、日本赤十字社の熊本県支部のホームページで 梶山哲生さんが黎明期の博愛社の歴史を精細に調査して連載されている。その中に実物の写真があり、想像図とは違っていたのでお伝えする。
連載は「日赤発祥の地・熊本」で連載29回(平成24年9月号)にその記事はある。

記事を参考に作成した標章は次のようなものだ。
日本赤十字社の熊本県支部の記事を参考に復元した

八月の静岡県立中央図書館追加作品

西南戦争錦絵美術館に以下の4作品を追加した。いずれも静岡県立中央図書館の所蔵品である。

S013鹿児嶋新誌 三号
S014鹿児嶋新誌 五号
S015鹿児嶋新誌 七号
S016鹿児嶋新誌 九号




 今回は鹿児嶋新誌の所蔵品すべてであることと、豊原國周の作品が西南戦争関連が一段落する事もあって特別にお願いして、4点ご紹介させていただける事になった。
 

 それぞれ、池邉吉十郎、村田三介、前原一格、池上四郎の列伝である。各人に当時の人気歌舞伎役者が見立てられている。実際に演目があって演じられたのかどうかは不明。文は長谷川一嶺である。

2012年10月4日木曜日

赤十字の標章について

075平壌激戦我軍大勝図から 部分
 日清戦争錦絵の中の「075 平壌激戰我軍大勝圖」 の見直し作業をしていて気づいた事がある。前に新島八重がこんな姿だったのではとブログに書いたが、その看護師の腕章である。はっきりと赤十字の標章がある。2人とも全く同じ姿なので多分制服であろう。赤十字の標章の事を調べた所なかなか面白いのでご報告しよう。



博愛社創設許可の図
寺崎武男 筆




 日本赤十字は西南戦争時に佐野常民や大給恒(おぎゅうゆずる)らが熊本洋学校に設立した博愛社が始まりであるが、その設立にあたっては、敵味方の区別無く救護を行う精神が政府に理解されず、征討総督である有栖川宮熾仁親王の私的な認可で設立された。 
 当時の標章については、1877年のイラストレーテッドロンドンニュースの絵の中で横浜港から出発する官軍の兵士の中に赤十字のマークの入ったリュックを背負っている者が描かれている。ただ、この時期は博愛社が、戦地熊本で活動していたのであろうし、後で述べるように赤十字の標章が使用されるようになったのが、10年後なので、この兵士は、博愛社の関係者というよりは、若き国際赤十字活動(1863年から)を知るイラストレーテッドロンドンニュースの記者の思い込みか、あるいは、勇み足、つまるところ創作では無いだろうか。ただし、赤十字の標章の意味する所は政府でも認識していたはずである。
西南戦争で西郷軍を討つために横浜港から発つ帝国陸軍の画の中で右側に赤十字が描かれたリュックを背負った兵が描かれている。Troops For Satsuma (Embarkment,)Illustrated London News1877
 西南戦争錦絵の中では S012 伝聞民之喜 つたゑきくたみのよろこび という絵を7月に追加し、前々回のブログでもご紹介済みだが、この中に「鹿児嶋士族不平を起し朝意にあやかり その昔加藤清正の遺言を聞知して熊本の要所を頼みに官軍と抗戦数日に至り 官兵も傷者少なからず これにより各所に病院を設置し医員数十名看病卒数百人にして厚く治療を施さるることたとえにものなし ここにかけまくもかしこき朝廷 深く憂慮せられ御慰問の使を再度遣され 皇太后宮皇后宮にも御親製の綿撒糸(めんざんし)その他をたまわり 撫恤(ぶじゅつ)下さるるは実に雀躍の至りならずや これを全国に告げ 共に歓喜して奉謝せずんば あるべからず」という記事があり、皇室と博愛社の深いつながりをよく示している。
S012 伝聞民之喜 つたゑきくたみのよろこび
 さて、いよいよ本題の赤十字の標章であるが、博愛社が最初に赤十字の標章を使用しようとしたとき、三条実美が「これは耶蘇の印だ」といって認めなかったため、設立から約十年間は日の丸の下に横棒を一本引いて博愛社の標章として使用していたという事だ。
左が博愛社が10年間使っていた日の丸横一の標章の想像図(筆者作成)、右は現在の赤十字の標章
(ウィキペディアより)
 1886年に明治政府がジュネーブ条約に調印したことで1887年博愛社は改称して日本赤十字社となる。そして、その時に赤十字の標章をそのまま採用した事になる。赤十字社はその活動内容からして、標章を一番大切にしている。つまり、戦場のなかで中立である事を敵味方にはっきりと伝える必要があるからである。そして、緊急事態でもそのサインが使用できるよう標章に関しては、デザインの厳格な規定は無い。そのかわり、類似したあらゆるサインが禁じられているのである。1887年に日本赤十字社としてスタートした時点で、その標章は現在の物と同じになったという事である。 現在でも、赤十字のマークには複数種類がある。十字はキリスト教の印だとして、嫌うイスラム教国は赤新月を使い、パーレビ王朝のイランは赤獅子太陽旗を使っていた。イスラエルはダビデの赤楯旗を使いたかったが、認められず、赤十字の構成メンバーにはなっていなかった。2005年にそのあたりを解決するプランとして赤の菱形を象った宗教的に中立な第三の標章「レッドクリスタル」が正式に承認された。
上段の左は赤十字、中が赤新月、右は赤獅子大陽
そして、下段が第三の標章レッドクリスタル(いずれもウィキペディアから)
 レッドクリスタルは単独で用いる以外に中の白地の部分に独自のマークを入れても構わないこととなり、中に「ダビデの赤盾」のマークを入れた標章を用いることで、イスラエルの赤盾社は国際赤十字への加盟が出来る事となった。同様に国内での宗教勢力のバランスから赤十字・赤新月の標章を併用したいと主張しているエリトリア等の国や地域でも、「レッドクリスタル」の中に赤十字・赤新月両方のマークを入れた標章を使用することで国際赤十字への加盟を期待しているそうだ。
左がダビデの赤楯(不認可)、中はレッドクリスタル、右はレッドクリスタルの中に
ダビデの赤楯を配した標章。これによってイスラエルは国際赤十字に加盟できる事となった。
以上、この項は「明治日本と赤十字」吹浦忠正ならびに赤十字社 ウィキペディア日本語版 最終更新 2012年10月1日 (月) 11:48 (UTCの版)http://ja.wikipedia.org/wiki/赤十字社を参考に構成した。画像は日清戦争錦絵美術館(国立国会図書館)ウィキペディア日本語版の赤十字の項、佐野常民の項、西南戦争錦絵美術館(静岡県立中央図書館)のものを使用した。赤十字の標章に関しては改ざんや乱用が厳しく禁じられている。この項において、想像図として作成した博愛社の日の丸横一の標章は、あくまでも赤十字のサインの変遷を研究するための参考資料として作成した物で研究以外の意図は無い事をお断りしておく。最後に、1877年のイラストレーテッドロンドンニュースの横浜出航の赤十字を背負った兵士が両手に旗をもっており、旗のデザインは横に一本の直線を引いた物に見える、モノクロなので色は不明。旗の種類や意味などご存知の方は、ご教示くださいませ。

2012年8月1日水曜日

招き猫の御届印



 日清戦争錦絵にズームツールを装備しながら記事やデータを確認・見直ししている。その中で面白い版元を発見したのでご紹介しよう。
 日本橋区小傅馬町三丁目十一番地の版元 長谷川園吉は御届印を招き猫の枠の中に書き込んでいる。日清戦争錦絵にとりあげている長谷川園吉出版のすべての作品がその形式になっている。
 左図がその実際であるが、上から順に
となっている。
 ウェブ上で版元長谷川園吉を探した所、江戸東京博物館所蔵の「東京名所上野山下ステション開業式気車発車之図」がまず見つかった。明治21年1月の発行であるが普通に四角に囲んであるだけである。
 ただし、このにぎやかな絵のタイトルを囲んだ図柄は蒸気機関車の動輪であり、紅白の旗と提灯で埋め尽くされた景色を右上で文鎮のようにしっかりと押さえつけている。この画はそうやって押さえつけていなければ、その文鎮の隣で花火とともに空中に舞い上がっている、魚やだるま、金魚、ねこ、こうもり傘、日の丸の旗、そして、紳士などと一緒に画面全体が、はじけてしまいそうな騒がしい絵なのである。長谷川園吉のプランかどうかは定かではないが、少なくとも、こういう仕掛けを嫌いな版元ではなかったようだ。面白い画なので是非一度ご覧下さい。
 他に野田市立図書館所蔵の「b04 朝鮮京城 大鳥公使大院君ヲ護衛ス」(楊斎延一画、明治27年刊)はやはり招き猫型である。
 日清戦争開戦で錦絵のブームが再来し、よしとばかりに、制作し、売りまくった版元の気合いと、デザイン感覚、洒落っ気が合わさってこんな印になったのだろう。

2012年7月29日日曜日

七月の追加作品


S012伝聞民の喜

S010西國紀聞出陣問答
S011羅喉星見立競当九星
S012伝聞民之喜
 以上三作品を追加した。いずれも静岡県立中央図書館所蔵品である。「伝聞民之喜」は西南戦争開戦後2ヶ月余で設置された官軍の病院を後方から支えた、英照皇太后(明治天皇の嫡母)と昭憲皇太后(明治天皇の皇后)を取り上げている。絵としては女官が薬液に浸したガーゼ(綿撒糸めんざんし)を準備している姿を写しているが、この程度で、民が雀躍する程のありがたみがあったのかは疑問であるが、華やかさは伝わっている。昭憲皇太后は『維新期の皇后として社会事業振興の先頭に立ち、華族女学校(現学習院女子高等科)や、お茶の水の東京女子師範学校(現・お茶の水女子大学)の設立、日本赤十字社の発展などに大きく寄与した(赤十字社の正式紋章「赤十字桐竹鳳凰章」は、紋章制定の相談を受けた際、皇后がたまたま被っていた冠が桐と竹の組み合わせで出来ていた事から、「これがよかろう」という事で決められたという)。1912年(明治45年)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.にて第9回赤十字国際会議が開催された際、国際赤十字に対して皇后が10万円(現在の貨幣価値に換算すれば3500万円ともいわれる)を下賜した。赤十字国際委員会はこの資金を基にして昭憲皇太后基金 (Shōken Fund) を創設した。この基金は現在も運用されており、皇后の命日に利子を配分している。』(昭憲皇太后  2012年7月25日 (水) 21:11 UTCの版 ウィキペディア日本語版 http://ja.wikipedia.org/wiki/昭憲皇太后)とあるように、社会福祉に積極的に取り組んだ面があるようだ。残念ながらそのことを充分に伝える絵にはなっていないといっていいだろう。想像で紡いだ画の限界を示しているのかもしれない。


075平壌激戦我軍大勝図
 以前にご紹介した、日清戦争時の看護師の絵は最前線で活動する様子を活写しているように思われるが、そういうリアリズム(と言い切っていいかは疑問が残るが)が発揮されるためには現地で取材を行うという、今では当然の行動が必然であったであろう。その意味で、「伝聞民之喜」は未だ過渡期の作品であり、絵師の取材する力の弱点を如実に示しているといえるだろう。


056西国鎮静撫諸将賜天盃之図
 実際、「伝聞民の喜」は左に示す、西南戦争終了後の功労の宴を描いた画「西国鎮静撫諸将賜天盃之図と大してイメージは変わらないのである。複数の女性が登場し華やかな色遣いで美しく表現できる、宮中という題材はその絵の本来のテーマをも霞ませてしまうという、実は非常に危うい画題でもあったのだ。


 七月中に「日清戦争錦絵美術館」の40枚目までズームツールを導入し、記事の中味を見直した。この後は、すべてにズームツールを装備して、また、記事をさらに整理していきたい。大英博物館所蔵の日清戦争錦絵が7点程確認できているので近いうちに追加したい。

浮世絵探検 高橋克彦


 高橋克彦著「浮世絵探検」は浮世絵に関する対談集で、ゲストが多彩でとても面白い。1997年岩波書店刊なので、少し古い本であるが、文庫版も出ていて、手軽なので時々読み返している。その中で、宮地真人( 東京大学史料編纂助教授・当時 現・東京大学名誉教授)が次のように語っている。

「ペリーが来たという事が歴史的な事件ではない。アメリカの黒船は、アジアでもアフリカでも、どこでも来ている。どこでも来ているけれども、あれだけ大騒ぎになったのは日本だけだという事が問題なのだ、と。来たということよりも、どう受け止められたかという問題を視野に入れないと、民衆レベルの意識の問題というのは出てこないのではないか。そういう視点で、近世における非文字資料、とくに画像資料が何を担ったのかというのは、相当大事な問題だろうと思っています。」

 正鵠を射るとはまさにこのことで、「西南・日清戦争錦絵美術館」もこの視点を大事にしていきたいと思っている

2012年7月6日金曜日

明治の少年隊

 明治11年に新富座で上演された歌舞伎「西南雲晴朝東風」の芝居画から。西郷隆盛、篠原国幹、桐野利秋ら薩軍のリーダーたちの決起から敗北までを描いている。役名は、それぞれ西條隆盛、簑原国元、岸野利秋などと変更している。



 中に、少年隊の旗を掲げる、三人の美少年の姿があったので抜き出してみた。「右手に血がたな 左手に手綱 馬上ゆたかな 美少年」の田原坂の歌詞が、思い出される。
S008西南戦争(静岡県立中央図書館 蔵)から。


 6月後半から現在までに、以下の作品を追加した。
静岡県立中央図書館から豊原国周の芝居画を3点。


国立国会図書館から

小林清親の五枚続の作品、初登場の三代歌川広重の作品など。

大英博物館から

数種類の異刷があり、比較できる。

国立国会図書館と大英博物館に関しては、三枚完全にそろっている物で著作権をクリアして公開許可の出ている物は、今の所すべてご紹介できたと思う。静岡県立中央図書館の作品を、月に3点づつ追加していく他に、今後は画像を転載できない作品(他施設の物を含めて)をリストアップして、西南戦争錦絵の全貌に少しずつ迫っていきたいと考えている。