「S030鹿児島戰記之内(静岡県立中央図書館のタイトルは鹿児島戰記之内都城籠城)」(画・楊洲周延)の記事を書いている永島乕重(ながしまとらしげ)について調べたところ、面白い事がわかってきたので書き留めておきたい。まず、同じ作品の異刷と見なして良いであろう国会図書館蔵「u020鹿児島戦記之内 〔賊軍都の城に篭りて評議の図〕」においては、この乕重の詳細が確認できていないため館内限定公開にとどめているらしい事がある(筆者の想像、国会図書館には未確認)。そして、同様に乕重が確認できず、館内限定公開にとどまっている作品が、他に「u016鹿児島暴徒激戦之図」(画・永嶋孟斎)、「u019〔賊軍より奪いし弾薬箱より賊兵出でる図〕」(画・楊洲周延)の二作品あり、乕重の事がはっきりすれば公開を呼びかける事ができそうな作品が、都合三作品あるという事だ。いずれも、文章家として名前が挙がっており、記事の作者のようである。公開されている作品としては西南戦争錦絵美術館の中に「D099鹿児島縣士族大山綱良護送之圖」があり、記事の末尾に「 小生 永島乕重(ながしまとらしげ) 記」というサインがある。画は永嶋孟斎である。
館内限定公開の画面 |
浮世絵文献資料館で永島乕重を検索しその記事をまとめると「乕重(とらしげ)は慶応から明治20年代までの浮世絵師。永島福太郎、孟斎、竹林舎。神田紺屋町に住む。玩具絵、遊戯を得意とする。芳虎の門人か子弟。」という事である。ここででてきた、永島福太郎・孟斎という名前と号に注目していただきたい。これまで永島孟斎は歌川芳虎の事だと考えてきたからだ。歌川芳虎をウィキペディアの記事などからまとめると、「芳虎は一猛斎、孟斎、錦朝楼、永島辰五郎、辰之助、辰三郎。国芳の門人。作画期は天保(1830-1844)から。明治元年絵師番付2位。没年は不明であるが明治21年(1888年)頃、死去したと考えられる。国芳とは不仲になり破門されている。須田町四番地に住んでいた。」となる。どうも、永島孟斎を名乗る絵師が2人いるという事になりそうだ。つまり芳虎と乕重は別人であるが、ともに永島孟斎を名乗ったことがあるという風に考えられる。芳虎が師匠か父兄、乕重が弟子か子弟という関係になりそうだ。芳虎は絵師として活発に活動したが、乕重は玩具絵などにとどまり、むしろ、絵師というよりは企画者として記事を書いていたのではないだろうか。二人を呼び分けるには辰五郎孟斎と福太郎孟斎、孟斎芳虎と孟斎乕重。須田町の師匠と〇〇町の弟子、といった呼び方であろうか。
西南戦争錦絵でこれまで紹介してきた作品の中に永島孟斎作品は12作品ある。西南戦争錦絵は御届印とともに、絵師又、出版人の住所が刷り込まれている。また他にも絵師のサインなど、情報は豊富にあるので、それを見てどちらの孟斎か判断してみよう。12作品中、須田町が8作品、松川町が2作品。絵師情報なしが2作品となっている。住所のある10作品はすべてが「ながしましんごろう」作品なのでこの10点は確実に師匠の作品であるといっていいだろう。残りの2点は「041田原坂の大戦争」「D100肥後熊本暴徒記」であるが、永嶌孟斎画とのサインがあるだけなので、サインを比較してみることが必要となる。下図を見ていただいたらお分かりのように同一の作者と判断して間違いなさそうだ。よって西南戦争錦絵の画像は、すべて、歌川芳虎つまり辰五郎孟斎芳虎(須田町の師匠)の作品であり、中に数点、弟子の福太郎孟斎乕重が文章を書いたものがある、という事になる。これまでのところ、福太郎孟斎乕重の画は未見である。
040西郷涅槃像はサインはなく、絵師 情報のみ。 041とD100の2作品と他のサインは非常に良く似ている。 |
早稲田大学の古典籍データベースを見ると永島福太郎で文章を書いている例が5件(注釈1)ある。その中で、「鹿児島戦記.後編/永島福太郎 録;永島孟斎 画(歌川芳虎)」は全10集の絵入りの本であるが、シリーズタイトルは絵本 鹿児島戦記・東京書肆 青盛堂版 となっており、発行者の個人名はない。後編は各冊16頁に仕立てられ、すべてが絵入りの文章(墨刷り)に色刷りの表紙がついた体裁となっている。全部、永島福太郎録・加賀吉板・永島孟斎画となっており、弟子の文章に師匠が絵をつけたようだ。常識的に考えて、師匠の作画期は弟子は孟斎を名乗っておらず、福太郎という名前で活動していたのだろう。
注釈1
開化一口ばなし / 永島福太郎 編著
[開化一口ばなし]. 初号/ 永島福太郎 録 ; 竹林舎虎重 述
開化新作度々逸. 1,3-4 / 永島福太郎 著 ; 永島辰五郎 編輯・画
鹿兒島戦争日記. [前],後編 / 櫻齋 [編] (歌川房種、辻岡文助)
鹿児島戦記. 後編 / 永島福太郎 録 ; 永島孟齋 畫(歌川芳虎)